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「五人の突撃隊」の星川清司のシナリオを、「明日を呼ぶ港」の島耕二が監督した文芸もの。撮影は「家庭の事情」の小原譲治。
出演者
ストーリー
明治三十六年、石川啄木十八歳。盛岡市内の下宿を追われるほど、困窮はその極に達していたが、良き恋人節子を得、更に新文芸誌「小天地」の発行を計画する啄木の意気は軒昂たるものがあった。岩野泡鳴、与謝野寛、小山内薫、正宗白鳥、網島梁川等、三十数名の執筆を得、中央の文壇をそっくり盛岡にもつくるのだと、啄木は、旺盛な創作意欲を見せていた。明治三十九年、啄木二十一歳。期待された「小天地」は、好評に拘らず、経済的な理由から、僅か一号にしてつぶれた。生活に追われた啄木は、故郷渋民村に帰り、小学校の教員となった。だが、父一貞の宝徳寺復帰に関しては、村民一派の執拗な迫害にあった。明治四十年、啄木二十二歳。相変らず貧窮はつづいた。父一貞は口減らしのため家出した。推敲を重ねた小説は完成したが、出版社の採用するところとはならなかった。学校において啄木の教育は自由奔放を極めた。子供達は啄木を慕ってはいたが、校長一派は啄木を敵視、果ては辞任の止むなきにいたった。送別の日、生徒らは、校長達の阻止にも負けず啄木作の歌を全員で合唱。啄木を送った。明治四十五年。啄木二十七歳。渋民村を追われた啄木は、単身北海道に渡った。転々とつづいた放浪の生活と長年の貧困は啄木の体をむしばみ、東京にて遂に病の床に伏す身となった。そして--桜も散りかけた春も晩い四月十三日の朝、この無限の情熱と才能を秘めた詩人は、変らぬ貧困の裡に息をひきとった。遺体の胸には死の寸前友人牧田春月の手で届けられた詩集「一握の砂」の校正刷りがのせられてあった。その巻頭には長年の理解者であり、またとない友人であった金井一明に捧げられた啄木の献辞がみられた。東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむるいのちなき砂のかなしさよさらさらと握れば指のあひだより落つ
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