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三十六回に及ぶ日本ダービーの歴史とともに綴る調教師尾形藤吉の半生記。脚本は、不良番長シリーズの松本功と山本英明に「日本暴力団 組長と刺客」の佐藤純彌が共同執筆。監督は佐藤純彌。撮影は「現代女胴師」の仲沢半次郎が担当。
スタッフ
ストーリー
北海道から単身上京、騎手になった山形正吉にとって馬こそ人生のすべてであった。彼は家族はもちろん、騎手の島崎、楠田、矢沢、馬手の中井ら山形厩舎に所属する人間全員に対してもこのうえなく厳格であった。競馬にたずさわる者にとって、その目標はなんといってもダービー制覇である。昭和七年の第一回日本ダービーは雨の目黒競馬場で行われた。一着ワカタカ、正吉の騎乗したオオツカヤマは二着だった。無念の涙をのんだ正吉は、この時やはり関西競馬界の期待をになって、七着と敗れた加藤直吉を知り、その後二人は無二の親友でよきライバルとなった。第三回は新装なった東京競馬場に舞台を移した。レースは島崎らの活躍で三着まで山形厩舎独占という大勝利に終った。この時、肺炎のため病床にあった正吉は、自分の老いを痛感、以後馬に乗ることを締めて、調教師として生きぬくことを決心した。島崎のたずなさばきは冴え、第五回ダービーをトクマサで制覇した。やがて太平洋戦争が始まり、正吉の周辺に変化が起きた。娘、芙美子の結婚、息子栄一や矢沢、楠田の出征、さらに島崎はレース中落馬して失明。その間、第十二回ダービーに見習い騎手の前川がクリフジで優勝したことは思いがけない幸運だった。だが、その前川も出征して、帰らぬ人となった。そして昭和二十一年、戦後最初のダービー。正吉が直吉から託されたタチカゼは騎手変更のアクシデントを克服して見事優勝した。病床にあった直吉はその知らせを聞きつつ息をひきとっていった。第十九回ダービーは、矢沢のクリノハナ、楠田のタカハタで一、二着を占めた。島崎は、見えない目をこらして、感激の一瞬を味わっていた。その後第二十三回のハクショウ、第二十八回のメイズイと山形厩舎はダービー制覇通算七回の偉業をなしとげた。昭和四十四年、山形厩舎期待のワイルドモアは、弥生賞、皐月賞を連破し、快進撃を続けたが、ダービーを目前にして骨折してしまった。かわって期待をになったミノルの執念の追い込みも届かず、伏兵ダイシンボルガードが栄冠をさらった。正吉は今、昨年の無念をはらすべく大器アイアンモアの調教にひたすらとりくんでいる。
仕様
その他
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